私は、1971年(昭和46年)12月29日に愛知県一宮市で生まれ、同市にて育ちました。父親は、愛知県一宮市の生まれですが、母親は九州で長崎県佐世保市の出身になります。
母方の親戚も九州に多く住んでいたせいか、子ども時分から聞いて育ったその地方の言葉が大人になった今でも時折口から出てきてしまいます。(笑)
割と健康で大病を患うという事も無かったのですが、1歳児の時から受けた複数回にわたる「大腿部」への風邪薬の注射がもとで、幼少期から両足の太ももの筋肉が縮んでしまうというハンデを負ってしまいました。
幸いな事に、被害者の会の方々などの尽力のお陰で国や厚生省(現厚生労働省)に勝訴することが出来、医療ミスとして認定されました。
(大腿四頭筋短縮症 という病名です)
小学2年生の夏に「左腿」の手術を、高校1年生の夏に今度は「両腿」の手術を受け、やっと普通の方と同じような生活を送れることになりました。
当時は辛い事もありましたが、今思えば良い経験が出来たと思っています。
幼少の頃から腰痛や股関節痛、足の痛みに悩まされていましたので、いろいろな治療院巡りをしてきたお陰もあり、人体について大変興味があり良く調べたりもしておりました。
手術を受けてからの高校生活は、
「これが、普通の痛みや疲れなんだ」
と理解する事ができるようにはなりましたが、なにぶん成長期の筋肉の大半を切り取られていましたので、もっぱら筋力トレーニングに明け暮れる日々を過ごしましたが、何よりも健康体のすばらしさを実感しました。
医療とは関係のない普通の短大に進み、アルバイトなどに精をだす学生生活を送ったあと、平凡なサラリーマン人生を選びました。
ですが、仕事や日々の忙しさによってあの嫌な「足の痛み」や「腰痛」の再発もあったことで、昔のように自分の身体を自分でマッサージする日々をまた繰り返すようになりました。
これ以上の手術も筋力的に限界と感じましたので、当時通っていた「鍼灸整体院」の勧めで中国整体の学校が主催している治療院を訪ねました。
子どもの時からいろいろな所に行っておりましたので一通りの治療の流れは分かっているつもりでしたが 、「初めての技術」に驚いたのと「骨格矯正が負担や無理のない施術」でしたので、「治療もかねて学びたい」と思い入学を希望しました。
元々、バーテンのバイトを2年ほどしていた時からずっとスタッフの「肩もみ要員」をしていましたし、自分の身体もよりケアができるので、違和感無くこれからの進路を決める事が できました。
在学時から名古屋市熱田区の石垣接骨院(奥様が、在校生でしたので)で修行をさせていただき、石垣院長からの治療技術や所見など、ご指導を賜る「幸運な2年」を卒業までの間、過ごすことが出来ました。
と、言いましても覚えることが多くて悩んだり、苦労したりの連続でしたが・・・。
上海中医薬大学付属日本校の李強先生からも、本場の中国推拿を直接ご教示いただき
「推拿士」としての技術も高めることができました。
ようやく自分の目指す形になってきた事もあり、知人である名古屋市栄のコリとりステーションの伊藤先生のもと、クイックマッサージ店のノウハウを学んだのち1996年3月に、愛知県一宮市本町にて一宮初のクイック店として「らくラク整体」を開院しました。
病気に負けない身体つくりを模索するうちに「酵素栄養学」や「免疫学」などに触れ学ぶうちに、身体の外面だけではなく内面へのサポートも出来ればと思い、開院20周年を経た年に院名を「支える者」という意味をもつ【アトラス整体院】へと変更致しました。
これからもさまざまな症状に対応できる様に、今でも同期の先生と情報交換などを行い、日々勉強を続けております。
昔と変わらず、現在も当時の志を持って患者さんの痛みと不調と向き合い、あなたのお役に立つために日々精進して努力を続けてまいります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。